<考察1>【第1話】冒険の終わり/「そうなのかな...」の行間

<はじめに>

『葬送のフリーレン』は、週刊少年サンデーで連載中の山田鐘人先生(原作)とアベツカサ先生(作画)による、ロード・オブ・ザ・リングドラゴンクエストのような魔法と剣の世界を描いたファンタジー系のマンガ作品です。

 

『葬送のフリーレン』は、ファンタジーを描いた作品では一般的な、ド派手なアクションや魔法のエフェクト効果による視覚的に圧倒するようなシーンは多くはありません。しかし、この世界で生きる人たちの一つひとつの感情や思いが台詞とコマの中に時にはあたたかく、時には切なく、とても優しい表現で描かれています。この世界に静かに流れる空気はとても居心地がよく、ずっと浸っていたいと感じる人も多いかもしれません。

 

そんな空気感を作り出している一つの要因に、私は「行間(ぎょうかん)」があると思います。キャラクターが発する台詞の裏側に隠されており、表立って説明されることのない言葉や表現の間に存在する「行間」。この「行間」こそが『葬送のフリーレン』という作品に文学的なエッセンスと、読者それぞれに解釈の余地を与えて物語に誘う、心地のよい「余白」を生み出している気がします。

 

そこで、この「行間を読む 葬送のフリーレン」では、『葬送のフリーレン』の中に散りばめられた数々の「行間」を見つけ出し、作者が伝えたかった(と勝手に解釈した)思いを、独自の視点で読み解いていく『葬送のフリーレン』考察ブログとしていきたいと思っています。

 

ここに記載した内容は、あくまでも私自身の解釈であり、作家の真の狙いや意図は分かりません。だからこそ、自ら考え、そして知ろうと思っています。その点を踏まえながら「行間を読む 葬送のフリーレン」を読んでいただき、あなたの想像と照らし合わせながら楽しんでいただけるととても幸いです。

 

※この記事には作品の内容を記載しています。その点を注意いただきながら、ここから読んでいただけますようお願いいたします。

 

<葬送のフリーレンの物語構成(あらすじ)>

「物語の始まりは冒険の終わりから」そんな言葉に裏打ちされるように、物語は勇者ヒンメル一行が魔王を倒して城に帰還するところからスタートします。そして第1話にて、物語は一気に「50年後」に飛びます。一般的なマンガであれば、魔王を倒すまでに起こる様々な出来事を順に追って描かれていくわけですが、この『葬送のフリーレン』は異なります。

 

本作品の主人公であり、1000年以上生きているエルフ族の女性「フリーレン」が、仲間たちとの記憶を一つずつ想い出しながら現在を生きていきます。過去の大切な想い出がフリーレンの現在の行動に変化を与えると同時に、現在の言動の中から過去の想い出を想起し、「あぁ、そうだったのか」と過去の想い出の解釈を変えていきます。

 

現在進行形の冒険の旅路の中で、今と過去の2つの物語が同時に進んでいく『葬送のフリーレン』。人の人生とは現実と想い出で構成されているのかもしれない、そんなことを感じさせるストーリー展開です。

 

<考察1>【第1話】冒険の終わり/「そうなのかな...」の行間考察

『葬送のフリーレン』第1話、勇者ヒンメル一行が魔王を倒した50年後の世界で、老人となり寿命を全うして故人となる勇者ヒンメルとのお別れのシーンがクライマックスです。(第1話なのに英雄が一番最初に死んでしまう展開が斬新。すごいです。)

大聖堂で行われている往年の勇者の弔いの場にて、悲しい面持ちで参列する街の人々の中に毅然とした顔つきで佇む、ともに魔王を倒した冒険の仲間である戦士アイゼン、僧侶ハイター、そして魔法使いのフリーレン。そんなフリーレンに対して、参列者から「悲しい顔一つしないなんて、薄情だね。」とささやきの声が聞こえてきます。その言葉に気づいて反応したフリーレンは、はっとした表情を見せて、そのあと号泣することになります。

 

この少し前に、僧侶のハイターは「ヒンメルは幸せだったと思いますよ。」とフリーレンに話すも、フリーレンは「そうなのかな...」との乾いた返事をするのですが、このハイターの問いかけをきっかけに、フリーレンは過去の想い出をひっくり返して、ヒンメルが本当に幸せだったかどうかを頭の中で反芻していたのではないでしょうか。つまり、悲しくなかったわけではなく、真剣に考えていたからこそ、他の人の声や表情に気づかず、真顔でいたのではないでしょうか。そして、その答えを見つけようと“たった10年”の旅を思い返してみても、本当に分からなかった。そして、そのあとフリーレンの口からこぼれ落ちた言葉、

 

「...だって私、この人のことを何も知らないし...」

「たった10年一緒に旅しただけだし...」

これらの言葉たちは、長寿であるエルフとしての本心から出た言葉というより、街の人から浴びせられてしまった「薄情」という言葉に対する、そして自分に対する言い訳の言葉。そしてそのあともまだ続きます。

 

「...人間の寿命は短いとわかっていたのに...」

「...なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう...」

頬を流れ落ちる涙とこれらのフリーレンの口から出た言葉の行間には、目には映っていたが感じることができなかった自らの情けなさ、そして失ってから気づいた取り返しのつかない大きな後悔の思いが存在します。

 

いつか必ず、大切な人との別れの時はやってきます。

ずっと元気だった愛する家族の、突然の別れかもしれない。

ずっと一緒にいると信じていた恋人との別れかもしれない。

ずっと会っていなかった親友の突然の訃報かもしれない。

 

別れはいつも突然だし、その瞬間にならないと自分の感情にすら残念ながら気づけないのかもしれません。そして、人は大切なものを失ってから、本当に大切なものに気づきます。大切な誰かの人生にもっと関わるべきだったのに、なぜそれを怠ったのか。なぜもう少し目を見て、話をして、言葉を交わさなかったのか。そして、心を通わさなかったのか。しかし、過去をどんなに振り返っても、大切な人は過去のままなのです。

 

ではどうすればいいのか。
それは、今をともに生きて同じ時間を共有している大切な人との時間を大事にすることなのかもしれません。ダラダラと時間を費やさず、その人に心を向けて過ごすようにする。そのような気持ちで接していれば、ありふれた日常の場面すらも、いつかとても大切な思い出に変わるかもしれません。そして、その思い出の数が多ければ多いほど、お別れの時に「あの人は幸せだった」と言い切れるようになるかもしれません。

その想いは、大切な人への最後の餞(はなむけ)であると同時に、最愛な人を失った自分自身に差し伸べられる、大切な人の最後の優しさなのかもしれません。

 

「あの人は幸せだったと思いますよ。」

「そうだね。幸せだったね。」

 

最期のお別れの時、そのような言葉で愛する人を見送ることができるそんな人生を送りたいとと思います。

 

そして、フリーレンの「人を知る」旅はここから始まるのです。